ある女子高生のお話

私が思った。

「知る」と「わかる」

 私の父方の祖母は健在である。今でも家を訪ねると、海賊船の描かれたガラスのコップにオレンジジュースを注いで、チョコレートなんかを出してくれる。これからもきっと、笑顔を忘れない素敵な女性だ。

 

 そんな祖母はよく私を考えさせてくれる。小学4年生の時、私は祖母にこんなことを言われた。

 

「知っているのと、わかっているっていうのは違うのよ」

 

「知る」と「わかる」

似ている言葉のように感じる。だが、祖母は「違う」と言い切った。6年経った今、私はその違いについて考えていた。そして、1つの考えにたどり着いた。

 

「知っている」と「わかっている」の違いは、理解の度合いによると思う。「わかっている」ほうが、理解の深いものと考えたのだ。

 

例えてみるならば、この2つはイチゴのタルトの一部である。「知る」が上に乗っているイチゴであり、「わかる」が下の生地だ。我々は、上のイチゴからナイフを入れる。そこから深く、生地まで刺して切り分ける。ここでいうイチゴのタルトは知識である。

 

分けたイチゴタルト1つを、1分野の知識とする。小分けになったイチゴタルトに、深くフォークを沈めることは豊富な知識を得ることである。生地まで刺して、わかっていると言えるのだ。

上のイチゴを刺しただけでは、それは「知っている」と同じであり、決して深くわかっているというわけではないのだと思う。

 

だが、表面のシロップやイチゴを口にしただけでタルトを全て知った気になり、リポートをするような人間が多いように感じる。それを人々は「にわか」と呼ぶのではないだろうか。

 

これは完全なる、私の考えである。正しいとは思っていないし、否定してもらって構わない。

だが、否定するならば「知る」と「わかる」の違いについて考えてからにしてほしい。

そして出来るならば、あなたの考えを聞かせて欲しい。

考えない限り、あなたも甘いシロップに喜ぶだけの人間なのである。

 

イチゴのタルトをどう分け、どれに深くフォークを刺すかで個性というものが出てくると思う。どのタルトにも深く、強くフォークを刺すことの出来る人間になりたい。